阪神・淡路大震災から20年

振り返ると言ってももうすでに脳内変換が大幅に起こっているので正確かどうかはわからないけど、キリが良い年に記録しておこう。

丁度転職した先の会社に初出社する日。
それまでDTPの仕事の合間にCGをやっていて、やっぱり本格的にCGを仕事にしたくて大阪のパナソニックの小会社に転職が決まってた。
緊張していた事もあり、3:00頃布団に入ったのに寝付けず、うとうとしていたところに地震。
俺の住んでいたところの揺れは最初ゆらゆらした後ドカーンともの凄い衝撃が来た感じだった。


それまで神戸は有感地震なんて何年かに一度有る位で、記憶に残っているのは厨房の時の授業中に窓がガタガタ音を立てて揺れたのが一度だけ。
それくらい無防備だったわけで、ゆれが収まった時には何が起こったか理解出来ず、とにかくこのままここにいたら危ないという事だけしかわからなかった。
倒れてきたタンスの下から腰が抜けてたらしい当時の嫁を叩きだし俺も這い出した時、壁だったところから星が見えてたのと、枕のすぐ横に27インチのブラウン管テレビがACケーブルでぶら下がっているのを見てぞっとしたのを覚えてる。
ベランダ側から外に出ようとして見えた光景は真っ暗闇の中にあちらこちらで上がっている火の手。
俺んちは山の中腹にあったので「百万ドルの夜景」的な景色が日常だったのだけど、それが漆黒の闇。
近所でガス爆発とか飛行機が落ちたとかそういう規模の事では無いのをその時に初めて認識。
外は割れたガラスやモルタル、木材等が散乱しているのだけど、靴を取りに玄関側には移動出来ないのでベランダに干してあった靴下をありったけ重ね履きして一歩一歩足に何かが刺さらないよう通りに向かう。漏れたガスの臭いが半端ない。


通りに出たあとアパートの住民との話で裏手にある病院へ移動する事にしてそこで明るくなるのを待つことに。
大けがをした人が運ばれてくるほど時間が経っていなかったので、血なまぐさい光景は見ていない。
明るくなった後家に戻る途中にぺしゃんこになった木造の家とかもあったのだけど、救助を手伝うほど自分に余裕は無かった。


家にもどり改めて惨状を見た後、近くに停めてあった自分の車を取りに行き服や布団や食い物、PC等を運び出し、しばらく途方に暮れていたんだと思う。
弟がバイクで様子を見に来てくれたのと、会社に電話するために通じてた公衆電話に並んだのは覚えているけど時系列が思い出せない。
弟にほぼ無事だと聞いた実家に移動する事にしたのは正午頃だったかな。
山手幹線や国道2号線をいったりきたり迂回したりしながら実家に向かうも、道の両側が燃えさかる長田に着いた時点で夜になっていてその先しばらくして完全に膠着。
トラックターミナルで配っていたおにぎりが美味しかった。
どうにも動く気配はないし、道の片側は大火事だし、あちこちで漏れたガスが小爆発しているし、一旦自分ちの方角へUターン、それを超えて芦屋から北上、六甲山裏を通って実家に付いた時には日付が変わってた。
普段だと車で1時間位の距離なのだけどね。
固定電話は通じず、ネットも無く、携帯電話もなく、そもそも情報が混乱したラジオだけがたよりという状態で運良く通れる道を選んだみたい。今思うと真っ暗闇の山道が途中で崩れてなかったのも運が良かっただけだなぁ。
俺の場合実家が被害が少なかった地域だったこともありインフラも一週間ほどで全て回復し、1部屋開けてくれたので避難所生活をする事はなかったのだけども、友人は色々だった。
道ばたで暖を取りながら暮らしたり、避難所に行ったやつもいたなぁ。
差し入れを持っていったりもした。


地震後そんなに苦労はしなかった方だと思うけど職場を変更せざるを得なかったり人生においてはなにもかもが大きく変わった事件だった思う。死生観はあきらかに変わったなぁ。
直接の友人が地震そのもので死んだという事はなかったのだけど、妹の友人が倒れた家から逃げ出せずそのまま火に飲み込まれたというのは有った。
その現場のヘリ映像は、その時の地震の象徴的な映像だったので、当時も何度もテレビに写っていてその度に胃が痛くなった。多分探せばいくらでもツベに有ると思う。
昨日今日あたりにやってるであろう番組でも使ってるだろう。
直接の友人一人はガレキで砂っぽくなった道をバイクで走っていてスリップを起こして死んだ。


と、ここで地震が起きた時間になった。
亡くなった方、ご冥福をお祈りします。


なにかが言いたいわけでも啓蒙するわけでもない単なる俺の記憶の保存なので読み返すと文章としてグチャグチャだけどもこのままw
下の写真は住んでいた家を片付けに行った時のモノ。
直後ではないです。


阪神淡路大震災1
阪神淡路大震災2
阪神淡路大震災3
阪神淡路大震災4